当社は、本神社である「大嶋奥津嶋神社」と、その境外社である「百々神社」「若宮神社」、さらに、山の上に社がある「白山神社」「池鯉鮒神社」で構成されています。
大嶋奥津嶋神社(おおしま おくつしま じんじゃ)

夫婦円満
大嶋奥津嶋神社(正式には「大嶋神社 奥津嶋神社」という)は、大国主命を祀る「大嶋神社」と、奥津嶋比賣命を祀る「奥津嶋神社」の二社が同じ場所に並んで建っている、ちょっと変わった神社です。両社はもともと別々の場所にありましたが、1361年(室町時代)には現在の場所に鎮座したと考えられています。
社伝によると、第13代成務天皇が滋賀高穴穂宮に即位の際(131年)、武内宿禰に勅して勧請したのが始まり。それ以降1900年近い歴史をもち、「蒲生郡十一座」にも数えられている、由緒正しき神社です。
男神と女神を祀る2つの神社が仲良く並んでいることから、「夫婦円満」のご利益があると言われています。神社の格式をあらわす『延喜式神名帳』には「近江國 蒲生郡 大島神社 小」「近江國 蒲生郡 奥津島神社 名神大」と記されていて、実は奥津嶋神社のほうが格上。「妻は強し」が夫婦円満の秘訣なのかもしれません(笑)

馬場と荘園
大嶋奥津嶋神社の鳥居前には馬の銅像があり、その右手には「馬場」と呼ばれる、馬が全力で走れるまっすぐな道がのびています。
蒲生野周辺には、このように馬の像と馬場がある神社が多数あり、賀茂神社(近江八幡市加茂町)の「足伏走馬」に代表される馬の祭りも数多くあります。
かつて、このあたり一帯が広大な荘園(馬の放牧場)であった名残、といわれています。

池と桜
大嶋奥津嶋神社の境内には大きな池があり、時折、カモやカワセミなども訪れてくれます。
春になると、池のほとりの桜が咲き誇り、たいへん美しく癒やされる光景になります。

天智天皇のむべ伝説
大嶋奥津嶋神社の境内には、「むべ(郁子、薁)」が植えられた棚があります。「むべ」は、アケビに似たつる植物で、この周辺にたくさん自生していました。神社の境内でむべを栽培している理由は、天智天皇にまつわる下記のような伝説があるからです。
蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の男子を持つ健康な老夫婦に出会った。
「汝ら如何(いか)に斯(か)く長寿ぞ」と尋ねたところ、夫婦はこの地で取れる珍しい果物が無病長寿の霊果であり、毎年秋にこれを食するためと答えた。賞味した天皇は「むべなるかな(いかにももっともなことであるなあ)」と得心して、「斯くの如き霊果は例年貢進せよ」と命じた。
その時からこの果実をムベと呼ぶようになった。
【出典】日本経済新聞(2003/12/3)《深井武臣宮司(当時)の寄稿文より抜粋》
大嶋奥津嶋神社では、この伝説にちなんで、毎年秋になると、宮内庁と近江神宮へむべの実を献納しています。1300年以上も前に賜った天智天皇からのご下命を、いまだに忠実に守り続けているわけです。

御祭神・由緒など(境内石碑より)
名 称/ 式内 大嶋神社 奥津嶋神社
御祭神/ 大国主命・奥津嶋比賣命
ご利益/ 夫婦和合、縁結び、交通・航海守護、商売繁盛、金運上昇、招福 など
境外社/ 百々神社・若宮神社・白山神社・池鯉鮒神社
境内社/ 日觸神社・日吉神社・四宮神社・喜佐伊神社・行司神社
境内社御祭神/ 應神天皇・大山咋命・天火々出見命・須佐之男命・高皇産霊命
国指定重要文化財/
御祭神 木造大国主命座像(平安)
菊花螺鈿鞍、黒漆鞍、黒漆鎧(平安~鎌倉)
古文書・徳政の木札(鎌倉~江戸)
由 緒/
当神社の勧請年紀は第十三代成務天皇滋賀高穴穂宮に御即位の年(一三一)武内宿弥に勅して祀らしめ給うと伝えられます。天智天皇蒲生野に御遊猟の砌、奥之島に行幸になり、この地に産する薁(むべ)を賞味され、年々皇室に供御すべきと仰せられました。延喜式宮内省諸国例貢御贄にも記されており、今も毎年十一月天智天皇を御祭神とする近江神宮へ献納しております。
延喜式(九二七)神名帳には蒲生郡十一座の内に大嶋神社、奥津嶋神社(名神大)両社とも記されており、さらに三代実録に、貞観七年(八六四)元興寺(奈良)僧賢和の奉請により当神社の神宮寺として阿弥陀寺が開基せらるとあります。往時は蒲生野北部一帯の産土神として斎祀されておりました。大正四年十一月(一九一五)由緒正しき神社として県社に昇格、昭和五十五年(一九八〇)には創祀一千八百五十年記念大祭を斎行、今日尚氏子崇敬者には御神威を奉持し御神徳を戴いている処であります。
百々神社(もも じんじゃ)

ぜんそく封じ
八幡山の北麓に位置する百々神社は、本殿が北向きに建てられている全国でも珍しい神社です。百々神社の本殿に登って鳥居の方(北)を振り返ると、大嶋奥津嶋神社や若宮神社がある島町・北津田町(旧奥島村)の家並みを一望できます。そして、百々神社のすぐ脇には「渡合(わたらい)橋」があり、この橋は、かつて、旧奥島村へ続く唯一の「玄関口」でした。
百々神社は、村境である渡合橋から悪霊・災い・疫病などが村の中へと入ってこないよう、結界の要として、あえてこの位置に、村を見守れる北向きに建てられた、と考えられます。
そして、厳しい北風に立ち向かうように鎮座するその立地から、古来、ぜんそくをはじめとする病を封じるご利益があるといわれ、『ぜんそく封じ』の神社として今なお多くの信仰を集めています。
毎月4日には、百々神社本殿にて「月例祭(ご祈祷)」が執り行われています。
- ご祈祷について、詳しくはこちら

道祖神・猿田彦命
村境の道端で、外来の疫病や悪霊を封じ、道行く人や村の安全を守る神様を、古来「道祖神(どうそじん)」といいます。百々神社はまさしく道祖神そのものであり、日本神話で天孫降臨の際に道先案内をした「導きの神」として知られる「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」が御祭神として祀られています。
猿田彦命は物事をよい方向へと導く神様であることから、方位除け・厄除け・交通安全・家内安全・事業開運・商売繁盛などのご利益があるとされています。
ちなみに、猿田彦命の妻は、神楽の祖・芸能の神として知られる「天宇受売命(アマノウズメノミコト)」です。天宇受売命は、芸能・縁結び・夫婦円満・所願成就などのご利益があるとされています。
ところで最近、「神様占い」なるものが注目されているようで、「自分の守護神が猿田彦命だから」と参拝に来てくださる方を見かけるようになりました。神様占いは、生年月日と性別で自分の守護神(=日本神話に登場する神々)が分かる、というもの。守護神が猿田彦命である人は、相手を和ませたり楽しませることができるロマンチストで、人の心をつかむ人気者のムードメーカーなのだそう。

渡合の大蛇伝説
昔々、渡合橋の下には恐ろしい大蛇が住んでいた、という伝説があります。
宇多天皇の御代のこと。渡合橋の下に一匹の大蛇がすんでいて、ゆききの人を悩まし、村人も大変困っていました。この橋の近くに住んでいたひとりぼっちの老人のあばら家に立ち寄った敦実親王(あつみしんのう)は、この老人の願いを聞きいれ、渡合の大蛇退治に挑み、見事成功します。
のちに村人たちは大蛇の魂を橋のそばに祀り、百々神社(道祖さん)と名づけました。以来、百々神社は、蛇除け、風邪や喘息の全快などのご利益があるとされ、今でも大切に祀られています。
【参考】近江八幡市市史編纂室『水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-』(2003)
百々神社には「大蛇の魂」が祀られていることから、巳年生まれの方も数多く参拝してくださいます。2025年(巳年)の正月には、一部メディアで「蛇が祀られている神社」として報道され、初詣客でおおいに賑わいました。
余談ですが、渡合の大蛇を退治したとされる敦実親王は宇多天皇の第八皇子で、後に近江国一帯を守護した佐々木源氏一族のルーツである宇多源氏の始祖と言われる大人物です。一説によると、佐々木氏の家系が家紋に目結紋(めゆいもん)を使うのは、ご先祖である敦実親王が退治した大蛇が水上と水中を同時に見通せた「4つ目」であったことに由来するとか…。

「どど」から「もも」へ
百々神社は、もともと「どどじんじゃ」と呼ばれていました。
しかし、すぐ近くの安土山で織田信長が安土城を築城し、城を囲む堀に架けた橋に「百々橋(どどばし)」と名付けたことから、信長に遠慮して「どど」を名乗るのをやめ、百々を「もも」と読み替えるようになった、と伝えられています。

八幡山縦走コース
百々神社本殿のすぐ右脇には、裏手の八幡山に登り、中世の古城・北之庄城址を経由して尾根伝いにロープウェイがある八幡山城址へ至るハイキングコースの登山口があります。百々神社から30分ほど登ると、国の重要文化的景観全国第1号に選定された雄大な『近江八幡の水郷』の風景を一望できる展望スポットがあります。
約2時間で日牟禮八幡宮前まで下山でき、そこから路線バスで百々神社付近まで帰ってこられる(途中にラ コリーナや水郷めぐり船乗り場もあります)ことから、1年を通じて多くの方が、百々神社で道中の安全祈願をしてから八幡山ハイキングを楽しんでおられます。

御祭神・由緒など(まとめ)
名 称/ 百々神社
御祭神/ 猿田彦命・大蛇の魂(おろちのみたま)
ご利益/ ぜんそく封じ、交通安全、事業開運、厄除け、縁結び など
由 緒/
敦実親王が退治したのが宇多天皇の御代(887~897)なので、その大蛇の御魂を祀る百々神社が創祀されたのもその頃と推定される。同時に、この場所が旧奥島村への唯一の入口・村境であったことから、村を外来の悪霊や疫病から守る道祖神としても信仰され、本殿は村落全体を見守れるよう北向きに建てられたものと考えられる。
若宮神社

「ほんがら松明」
琵琶湖と島地区とを隔てる姨綺耶山系(奥島山)の山並みに三方を囲まれた箱庭のような田園風景の一番奥、「近江湖南アルプス自然保養林ハイキングコース(奥島地区)」の入山口の傍らにひっそりとたたずむ「若宮神社」。
境内は焼け焦げた痕が残る巨木に抱かれ、山からの清流が注ぎ込む小さな池もあります。マイナスイオンが満ちていて、大地のエネルギーが感じられるパワースポット。
そんな若宮神社が対外的に知られるようになったのが、毎年4月の第三土曜の夜、春の例大祭の宵宮で奉納される「ほんがら松明(たいまつ)」。

近江八幡市界隈の多くの神社では、日牟禮八幡宮の『八幡まつり』に代表されるように、氏子が神社の境内に高さ数mの巨大な松明をつくって燃やす儀式が春の風物詩となっています。この祭は、西暦275年に應神天皇が近江へ行幸された際、琵琶湖を舟でお渡りになり、現在の近江八幡に上陸される際に、湖辺のヨシで松明を作り、火を灯して道案内をしたのが由来と伝えられていますので、実に1800年以上の歴史があるということになります。
実はこの松明、神社ごとに少しずつ形状・構造が異なります。大嶋奥津嶋神社の松明は「どんがら松明」と呼ばれ、杉の丸太を芯にして、ヨシ・藁・菜種がらを巻き付けて作るのに対し、「ほんがら松明」と呼ばれる若宮神社の松明は、竹でたくさんの輪を編み、それを煙突状につないだ中空の芯にヨシ・藁・菜種がらを巻き付けて作ります(※「ほんがら」は京言葉で「からっぽ」「空洞」の意)。そして、祭本番では、立てたほんがら松明の底から火を入れ、空洞をかけのぼった火がてっぺんに灯る、実に功名でドラマティックな構造になっているのです。

しかしこの「ほんがら松明」は、作るのも燃やすのも相当な手間と技術が必要なため、長い間途絶えていました。それが、地元の努力で復活したのが2007年春。その一部始終を収録したドキュメンタリー映画『ほんがら』が制作され、2008年に地元はもとより全国30か所以上で上映されました。また、2010年には書籍『ほんがら松明復活』も刊行されました。以来、「ほんがら松明」の製法は若い世代にも伝承され、今も毎年つくられ、奉納されています。


近江湖南アルプス自然保養林ハイキングコース(奥島地区)
「近江湖南アルプス」と言えば大津市の田上(たなかみ)山が有名ですが、姨綺耶山系を歩く「奥島地区」にもコースが設定されていて、若宮神社がコース入口のひとつとなっています。取り付きはやや険しい山ですが、標高はさほど高くなく、ひとたび尾根まで登れば、琵琶湖のパノラマ絶景を見ながらハイキングを楽しめるようになっています。

白山神社

白山権現
大嶋奥津嶋神社の裏手には、山頂付近に「天御中主尊」が祀られる磐座がある通称「津田山」がそびえています。その山腹にある「阿弥陀寺」から、さらに細く険しい山道を登っていった先に、2つの巨岩が折り重なってできた洞穴状の空間があり、その中には小さな一間社が鎮座し、「白山権現」が祀られています。日本神話の「天の岩戸」を彷彿とさせるその風貌に、神々の存在を感じずにいられません。
毎年3月に白山神社「春季皇霊祭」を行いますが、近年は気候変動による土砂災害の危険も増し、山道の維持が難しくなってきたことから、今は、現地ではなく麓の遥拝所で神事を行っています。

巨岩信仰
津田山には、「白山権現」、前述の「天御中主尊の磐座」のほかにも、「天照大神の石座」、長命寺の「六処権現影向石」や「修多羅岩」など、神が宿るとされる霊験あらたかな巨岩がたくさんあります。
「白山権現」は全国各地にありますが、そのルーツは白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神と言われています。ここの山々の険しさ・神々しさからも、かつて修験者がここに白山権現を勧請した理由が頷けます。
池鯉鮒(ちりふ)神社

元富士(権現山)と池鯉鮒(知立)権現
若宮神社の東方にひときわ高くそびえる「奥津山」は、地元では「権現山」として親しまれ、その美しい三角錐の形状から「元富士」の二つ名もついている山です。
[元富士]奥島の北にあり、施行山の向かいなり。高さ村より大概一町半許、総じて木石なし。頂上より二三間下り、大石磐石五六畳々として其上に古松二本あり。土俗此石ある処を権現谷といふ。富士権現影向の地とす。或いは云ふ、此山先涌出して然して後駿河国富士山いづ故に之を元富士といひ浅間山ともいひ云々と。
――『近江與地志略』より
この権現山の山頂付近にも巨岩があり、愛知県知立市の「知立(ちりゅう)神社」が勧請されたものとみられる「池鯉鮒権現」の一間社が祀られています。
このあたりはマムシをはじめとするヘビが多いことから、マムシ除けの神様として池鯉鮒権現が祀られているようです。毎年4月に祭を奉納しています。